20.9.20の日記
SNS疲れがひどい今日この頃。
もともと他人との交流は苦痛なので壁打ちしかしていないが、それでも疲れる。
Twitterもインスタも消したい、と思ってもなかなかできない状態がずーっと続いてる。
自分には特別仲のいい友達もいないから日常の感想を伝える相手もいないし、興味のあることについて話し合う相手もいない。
別にSNSも壁打ちだから話す相手がいるわけではないんだけど(しかもアカウントによっては鍵付きだから誰にも見えていない)、思い立ったときに一人演説ができる手軽さと、後から見直せる点から感情や思い立ったことを吐き出し続けてきた。
だが、それでも疲れる。
どうしても気になるワードで検索して自分と似た考えの人を探してしまう。同じ考えの人がいるのだと安心したい。でもそんなことをやっても同じ考えの人はあんまり見つからなくて、逆に目に入れるとストレスたまるタイプの人ばかり出てきてしまう。
しかも現実社会に照らし合わせて不可解な理論がマジョリティを得る、という場面は、ネットという小さな独自ルールで仕切られがちな場所では多く、かなりストレスだ。
でも、SNSから離れたら私は本当に”無”になってしまうのではないか。せめて現実にちゃんと交流できる友達や仲間がいれば…
とまで考えて、ふと思った。
私はこれまで人に対してちゃんと向き合ってきただろうか。
私は元々交流が苦手で、というか思春期に入ったあたりにいきなり人との会話の仕方が分からなくなって、それ以来交流を苦手としてきた。
でもあきらかコミュ障なのはプライド的に許せない。そう考えて高校~大学中盤辺りはできるだけコミュニケーションできるよう自分なりに努力してきたつもりだった。
はじめたころはなんとか話さなきゃ!という意識だけ先走って「あの…」とだけ話しかけ後の言葉が続かず「は?」と返されてトラウマが増えるという有様だった。
それでも努力の甲斐あってか大学に入ってからはおとなしい人とは思われつつも頑張って話の輪に入ったり、”普通”にギリ到達できたんじゃないかと思っていた。
まあまあ達成感を感じていた。
しかし、これまでは”うまく”コミュニケーションを取ることに必死で、自分を取り繕うことばかり考えていて、相手にちゃんと向き合っていなかったのではないだろうか。
(そのあと自分が交流を無理にやるのは向いていない、無駄だと考えて、交流から遠ざかるフェーズに入っていった)
よくよく考えたら大学の部活で深い相談までできる関係になったA先輩やB先輩はちゃんと自分に向き合ってくれていたように感じる。
私はそれを彼らがめちゃくちゃいい人でコミュ強おばけだからなんだろう、そういう性格だからなんだろう、とか思っていた。
実際そういうところもあるのかもしれないが、少なくとも彼らは目の前にいる人にちゃんと向き合っていた。
私も彼らを見習って、いい加減人としっかり向き合わねばならない気がする。